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第7話 

作者: 夜茉莉
毎回筆を取るたびに、手の傷跡が目に入って、自分の馬鹿さを恨む。

たかが男一人のために、私はすべてを捨ててしまったなんて。

洗濯も料理も、布団を整えるのも。

いつも「どうやったら男を支えられるか」「家の細々したことをどう片付けるか」ばかりに縛られていた。

でも今ははっきり分かる。

私の世界はこんな狭いものじゃない。

花に囲まれて、もっと遠くを見て歩くべきだったんだ。

あの七年間なんて、くずにくれてやったと思えばいい。

そのとき、先輩の高橋謙介(たかはし けんすけ)がやって来て声をかけてきた。

「恵美子ちゃん、この部分の修復どうだ?何年経っても、やっぱり君の腕を一番信頼してるよ」

私は笑って、謙遜しながら答える。

「高橋先輩の方がずっと優秀ですよ。どうして自分を卑下するんですか?」

謙介は私の頭を軽く小突いて、「おだてか?それとも自分を過小評価してる?」

空気がふっと和み、半月も張り詰めていた気持ちが少しほぐれた。

彼は優しく言った。

「大丈夫だよ。何年も絵筆を握ってなくても、自分を信じな。俺はずっと信じてるから」

そのとき、謙介のいとこの佐藤寧々(さとう ねね)が後ろから飛び出してきて、顔いっぱいに好奇心を浮かべながら茶々を入れる。

「おやおや、『ずっと信じてる』って!恵美子、私もずっとあなたを信じてるよ!

兄さんがこんなこと言うなんて珍しいね!恵美子、もしかして兄さんはあなたのこと好きなんじゃない?」

寧々は調子に乗って、私に抱きつきながら大はしゃぎ。

謙介はちらっと私を見ただけで、耳まで真っ赤になり、何も否定しない。

でも私はもう、恋愛に飛び込むつもりはなかった。

ただひたすら、自分を磨き直したいだけだ。

わざと話題を逸らして促す。

「仕事は終わったの? ここで勝手に噂を作ってないで」

寧々は口を尖らせ、楽しそうに笑う。

「図星つかれて慌ててる?」

一方その頃、国内に残っている明人は、日ごとに苛立ちが募っていた。

佳菜と暮らし始めてから、ソファに横たわる彼女を見るたびに胸が重くなる。

たった半月で、恵美子を思い出す気持ちは日に日に強くなるばかりだった。

そのとき、書斎の扉がノックされる。

「社長、修理に出されていたスマホ、直りました」

明人はすぐに受け取り、充電を差し込む。

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